その→| 0
| 1 | 2
| 3 | 4
| 5 | 6
| 7 | 8
| 9 | 10
| 11 | 12
| 13 | 14
| 15 | 16
| 自転車資料 |
これらは知人のv−luxe氏が1998年春以降インターネットのニュースグループfj.rec.bicyclesに投稿したものの再掲です.
【サンツアー の全て】その0 「岩井製作所」 | 【サンツアー の全て】その1 「前田工業 1」 |
【サンツアー の全て】その2 「前田工業 2」 | 【サンツアー の全て】その3 「前田工業 3」 |
【サンツアー の全て】その4 「前田工業 4」 | 【サンツアー の全て】その5 「前田工業 5」 |
【サンツアー の全て】その6 「前田工業 補足」 | 【サンツアー の全て】その7 「前田工業 6」 |
【サンツアー の全て】その8 「8.8.8の由来」 | 【サンツアー の全て】その9 「ジュニアスポーツ車」 |
【サンツアー の全て】その11 「前田工業 7」 | 【サンツアー の全て】その11 「前田工業 8」 |
【サンツアー の全て】その12 「先回り編 サイクロンM2」 | 【サンツアー の全て】その13 「第3世代シュパーブ」 |
【サンツアー の全て】その14 「エアロダイナミクス」 | 【サンツアー の全て】その15 「シュパーブテック 前編」 |
【サンツアー の全て】その16 「シュパーブテック 後編」 |
その0 「岩井製作所」 加筆訂正版
第1期サイクリングブーム と言えば昭和30年代もはや戦後では無いと当時の政府が宣言をして高度経済成長に突入する丁度その頃、「サイクリングサイクリングヤッホーヤッホー」とか「おつかいは自転車で気軽に行きましょ、あの道この道明るい青空」とか歌詞も、うろ覚えになってしまいましたが、自動車は高値の花で手が出ないけれども自転車なら家族全員分が買えたそんな時期、日本が活力に溢れていて毎日が楽しく、テレビはモノクロ、ラジオは中波、プロレスで力道山や豊登が、ヒット歌謡は「昨日ローマで眺めた月がオリンピックの晴れ姿4年たったらまたあいましょと固い約束夢じゃ無い」と南春夫氏。空にはソビエトの人工衛星。(時期が少し変です)
自転車はほとんどが実用車、変速機とは何の事だ。5千円も高いとは、今の感覚では5万か10万円も高い感じでした。(あくまで感じ、パンク修理35円の時代)
そのころ、変速機はスライドシャフト式全盛で「ローマオリンピックでイタリアチームがすごい変速機(カンビオ・代えると言う意味)を使ったらしい」といった噂を聞いてもピンと来ない、自分には関係の無い世界の出来事としか感じませんでした。
近所のお金持ちの伯父さんの自転車の後輪に何やら変な物がついていてギヤが3枚あるとは、「スピートが出るのかな」ぐらいの関心しか有りませんでした。その変な物に「SUNTOUR」と浮き掘りがあり単純に外国の物なのだなと認識していた、チェーンケージを長いスプリングでボトムブラケットから引っ張っていてチョット不細工でした。それが「サンツアーワイド」と言う変速機でもちろんスライドシャフト式、製造会社はなんと日本の会社で岩井製作所でした。(東京の会社)
岩井製作所は第1次サイクリングブームの終わり頃、昭和33年春先に倒産してしまいました、私がサンツアーブランドのスライドシャフト式変速機を見たときには既に会社は無くなっていたのでした。しかし外装式変速機に関するノウハウと「サンツアー」という商標は前田工業に受け継がれたのでした。
当時ほかにはもっと有名なサンコー舎がありハブ・変速機などを作っていましたね、こちらの方はレース用でした。
そうなのです、「サンツアー」という商標はもともとは岩井製作所のものだったのです。岩井製作所はツーリングを目指して変速機を開発していたそうです。もともとネジを造っていた会社でした、ちょうどペダルの極東(カクマル印)と同じです。岩井製作所と前田鉄工所は昭和29年ごろから業務提携をしていたらしい。岩井のサンツアー変速機と前田の888フリーのコンビで東日本は岩井製作所が西日本は前田鉄工所が販売していたらしい。(この辺不確かです)変速機はロングケージのサンツアーワイドとサンツアー8エイトが有りました。
その1に続く
その→|
0 | 1 |
2 | 3 |
4 | 5 |
6 | 7 |
8 | 9 |
10 | 11
| 12 | 13
| 14 | 15
| 16 | 自転車資料
|